現場の記録
履歴書には、肩書きと年が並びます。
けれど、現場で本当に起きていることは、そこには書かれません。
ここに残すのは、私が立ってきた現場の記録です。
場所、時期、関わり方、そして、見ていたもの。
うまくいった話だけでなく、潰された話、撤退した話も含めて。
こうした経験が、いまの「診断・予防・鎮火・仕上げ」という仕事につながっています。
自分で引き受けてきた現場
— 食の事業として
自分で引き受けると、現場のすべてが、自分の判断にかかってきます。
現場で重ねた、16年
独立後、最初に入ったのは食の現場でした。
もともと、食べることが好きでした。DeNA時代に食の世界に触れ、その面白さに惹かれたことが、事業を始めるきっかけのひとつになりました。
2010年に創業し、16年目を迎えた事業を、2025年に株式会社Constructに統合しました。
地方産品ECと、並行する試食販売
最初に取り組んだのは、地方の産品をECで届ける事業でした。
DeNA時代に見ていたのは、インターネットの力で、地方の商品がもっと広がる未来でした。
ただ、始めてみると、画面の向こうに見えていたものと、現場の手触りは、まったく違いました。
冷蔵・常温・冷凍を混載できず、送料が高くなる。
人気が出れば在庫が足りない。見込みを誤れば在庫リスクを抱える。
個包装や梱包は、想像以上に時間を取られる。
生産者ごとに条件が違い、運用は複雑になっていく。
ECは、画面の上だけでは成立しませんでした。
だから、並行して、スーパーや百貨店の売り場に立ち、試食販売もしていました。ECで扱いたい地方の産品を、自分で仕入れ、自分で運び、自分でお客様の前で売る。画面の向こうの数字ではなく、目の前で食べた瞬間の表情を、直接聞きたかった。
北海道の道東、オホーツクで、多くの生産者の方々と知り合い、一緒に挑戦しました。ただ、自分たちの経営体力、物流、運用、在庫管理、課題は山積みで、小さな形にしか落とせませんでした。
今ならもっと上手くできたのか。いや、ECだけで考えれば、むしろ今のほうが難しい。
このとき、強く思ったことがあります。
食べ物には賞味期限がある。だからこそ、自分たちで出口を持たなければいけない。
それが、「店を持つ」という発想につながっていきました。
東日本橋の立ち食い蕎麦兼弁当屋 — 最初の店舗
並行して、立ち食い蕎麦兼弁当屋を始めました。
東日本橋の、とても古い店舗を引き継ぎ、弁当を売り、立ち食い蕎麦を出す。これが、自分にとって最初の飲食事業でした。
客単価500円。数の勝負です。近隣には、弁当屋も、移動販売車も、たくさんありました。その中で、繁盛店を作り、利益を出す。
一円の利益を出す大変さ。
売上を作る難しさ。
在庫リスクの怖さ。
欠品の申し訳なさ。
ただ、ランチタイムになると、500円玉を握ったお客様が来る。
店の前の信号が変わる瞬間を、こちらを見ながら待っているお客様がいる。
その期待感を、現場で体感できたこと。それが、自分にとって、最初の成功体験でした。
東日本大震災 — 完璧な情報がない中で、動く
いまでも強烈に覚えているのが、東日本大震災の直後です。
金曜日の地震で、スタッフも帰れなかった。電気、物流、交通、インフラ。何が止まるのか分からないまま、週明けの月曜日を迎えました。
「電気がどうなるか分からない。とにかく、在庫は全部使い切ろう。」
そう決めました。車に食材や倉庫のストックを積み込み、不安の中、早朝から仕込みを始めました。
近隣のコンビニやチェーン店では、物流やサプライチェーンが止まり、商品が並ばなくなっていました。開店前から列ができ、気付けば、見たことのない長蛇の列になっていました。結果として、売上は過去最高を記録しました。
ただ、強く残っているのは数字ではありません。
現場では、正解を待っている時間がないことがあります。
完璧な情報がなくても、まず動かなければ、何も始まらない。
不安の中でも、現場で判断し、動いた経験が、いまでも自分の判断の根っこにあります。
事業の広がり — タピオカ、ホテル、メーカー支援
事業は、少しずつ広がっていきます。
2016年には台湾のタピオカを日本に紹介する事業に関わり、ブームの立ち上がりを現場で見てきました。
ホテル向けのビュッフェ監修。
レシピ開発、撮影、キッチンスタジオ、食品メーカー支援。
食のクリエイティブは、作れば終わりではありません。再現できるか。撮影で伝わるか。メーカーや流通の条件に合うか。
感性だけでは続かない。構造化と運用がなければ、食の仕事は事業になりません。
コロナ禍 — 業務用テストキッチンを、弁当屋に
コロナ禍では、事業も大きな打撃を受けました。
その中で、業務用のテストキッチンを、近隣の方向けの弁当屋に切り替えました。大きな計画があったわけではありません。
まず、今できる形で、現場を動かす。
その判断から始まった取り組みが、後のソトメグロ弁当へとつながっていきます。
ビストロファングム — 任せる、ということ
ビストロファングムは、信頼するパートナーが、日々の現場を回しています。
私は、そのパートナーの仕事を、「人にしかできない技」の研究対象として、いまも見続けています。
自分でやることと、任せること。任せたものを、どう支えるか。これも、自分の事業を持っていなければ、分からなかったことでした。
16年の失敗の連続から、現在の4つの事業へ
16年の事業経営の中で、うまくいったこともあります。大きく失敗したこともあります。
ただ、その失敗の一つひとつが、いまの自分の判断につながっています。
現場を見ないと、経営はズレる。
数字だけでは、現場は分からない。
好きだけでも、事業は続かない。
いま私が手がけている4つの事業 — 診断・予防・鎮火・仕上げ — は、頭で考えて設計したものではありません。
クライアントワークの経験と並んで、自分自身の経営で何度もズレてきた、その16年の失敗の連続から、形になっています。
現場のズレを見落とすと、事業は静かに崩れていく。それを、自分の会社で経験しました。
だからこそ、他の現場では、できるだけ早く見つけたい。
世界規模の展開を、現場から
設計図に書かれたものが、世界の店舗で本当に動くか — を見てきました。
8ヶ国・2,000店舗超への展開
— 機器を選ぶだけでは、終わらない
店舗で使われるデジタル機器の導入に関わってきました。店頭の業務端末、顧客接点のデジタル機器、店舗オペレーションを支える各種設備。
設計、製造、検品、キッティング、配送、夜間設置、店舗ごとの制約。ここに、資料上には出にくい「ズレ」が無数にあります。
機器は完成していても、現場に届かなければ意味がありません。
届いても、設置できなければ意味がありません。
設置できても、店舗で使われなければ意味がありません。
一店舗だけなら、力技で入れられます。しかし、複数国・多数店舗へ展開するには、設計から運用までを、ひとつの流れとして組む必要があります。
マーケティング、IMD、VMD、施工チーム、資材調達。立場の違う人々が、ひとつのプロジェクトに集まる。そこでは「正解」がひとつではありません。誰の論理を尊重しながら、どの判断をどの順番で通すか。それを決めるのが、店舗IT導入PMの仕事でした。
キッティングセンターでは、一万台規模の製造ラインを組み、ミスなく出荷する。
世の中にないものを、前例のない規模とスピードで、世界中の店舗に届ける。
ここで見ていたのは、テクノロジーそのものではありません。机上の導入計画が、現場で本当に動くかどうか、です。
日本仕様と、グローバル標準のあいだに立つ
シアトルに飛び、グローバルベンダーと共にディーラーマネジメントシステムを設計しました。日本の既存システムとのフィット&ギャップに、長い時間をかけました。
日本のディーラー業務は、世界基準と大きく異なります。
商習慣、帳票、税制、修理工場との連携、車検制度。グローバル標準の上に日本の業務をどう乗せるか。あるいは、乗せきれないものをどう諦めるか。
世界中で動いているシステムと、日本独自の業務慣習。そのあいだに立つ仕事でした。
炎上したプロジェクトを、着地させる
コンサルティングファームと並走し、炎上していたグローバルサプライチェーンの構築を着地まで運びました。
複数国にまたがる工場、物流、販売の流れを、ひとつのシステムに乗せる。途中で軌道を失いかけたプロジェクトを、現場の判断で組み直す。
「鎮火」という言葉の原体験は、こうした現場から来ています。
火が出た現場で、誰が何を抱えているか。どの順番で、どの判断を、誰の名前で通すか。資料には書かれない、現場の力学を読む仕事でした。
潰された話、撤退した話
うまく着地させた話より、着地させきれなかった話のほうが、後の判断を決めます。
現場で「これは使えない」と分かっていた
大手電機メーカーで、米国大手の産業用IoTプラットフォームを導入しようとしていました。
現場で見た瞬間に、これは使えない、と分かった。
技術的にも、運用的にも、ビジネス的にも、合わない。だいぶ戦いました。しかし、最終的には、組織として別の判断が選ばれました。
「現場の判断は、必ずしも組織を動かせない。」これも、現場で学んだことです。
そして、「組織を動かす判断とは別に、技術と現場の事実は残り続ける」ということも。いずれ、事実のほうが組織に追いついてきます。それを待てる胆力もまた、現場の仕事の一部です。
業界誌に大きく扱われる局面のなかで
起業後、VCと組んで、あるメディア系スタートアップの立て直しに入った時期があります。業界の主要誌に厳しく取り上げられるような、難しい局面でした。
うまく着地させきれなかった案件もあります。
ここで学んだのは、「火種が小さいうちに見抜けたかどうか」が、最終結果を決める、ということ。
火が大きくなってから入っても、できることは限られる。火が出る前、あるいは火種の段階で、誰がどの判断を保留しているかを見抜けるかどうか。
診断、予防、という発想は、こうした撤退戦から生まれています。
まちと、長く
一度の施策では、まちは変わらない — ということを、20年以上かけて教わりました。
人生で最初のプロジェクト
大学生のとき、国土交通省の社会実験に関わりました。原宿キャットストリート周辺のオープンカフェ実証、道路の物理的施策で車両速度を抑える実験。
今でもキャットストリートを歩くと、当時の施策の跡が残っています。
これが、「現場で何かを動かす」という仕事の、人生で最初の成功体験です。机の上で考えたことが、まちの形になり、人々の歩き方を変える。
この感覚は、20年以上経ったいまも、すべての仕事の根にあります。
同じまちに、20年以上関わり続ける
卒業後も、渋谷青山のまちづくりに関わり続けています。現在は、一般社団法人 渋谷青山景観整備機構(SALF)の理事を務めています。
20年以上、同じまちに関わり続けるなかで、分かったことがあります。
まちは、一度の施策では変わらない。変わるのは、判断の積み重ねの結果です。
短期の成果と、長期の構造。そのどちらも見ながら判断する目は、ここで養われたものです。
あの巨大な壁画を、まちに置く
渋谷の再開発の一環として、岡本太郎の壁画「明日の神話」をマークシティに招致する取り組みに関わりました。
あの作品が、いま毎日、何万人ものひとに見られている。
渋谷を歩くたびに、当時の挑戦を思い出します。そして、「まちに何を残すか」という問いに、ものづくりの仕事と同じ重さがあることも。
ここに並んだのは、業界も、規模も、年代もばらばらな現場です。
共通しているのは、いずれも机の上では決着しなかった、ということ。
現場に立って、判断する。
判断を積み重ねて、構造をつくる。
構造が、まちや、事業や、組織の文化になっていく。
その仕事の続きを、いま、株式会社Constructで行っています。